Masaru Saito

飛んでいる鳥のイラスト。
  • アホな考え方

    世の中にはアホな考え方があるというか、どうしてこうなるのかということがよくある。

    要するに非効率的なことだ。

    デジタル庁ができる前はデジタル化はすべての地方自治体にまかされていたらしい。だから、同じ仕様で各自治体ごとに作っていたということだ。

    当たり前なのだけど、デジタルなものって複製ができるし、同じものなら作らなくてもいい。サーバーを一箇所にしてしまうという手もある。距離は関係ないから、東京にあろうが、大阪にあろうが、ユーザーには利便性はまったく関係ない。これがデジタルの利点だ。

    OSがかわってもその周りだけ作り直すだけで、ほとんど作り直す必要はない。要するに開発というのは一度作ってしまうとほぼ直さなくていいのだ。仕様が変わらない限り。

    ただ、仕様が変わることはよくある。最初に作った仕様がちゃんと考えていなくて不具合がおこることもある。たとえば、住所は100文字あったらいけるだろうと思ったら、それ以上ある場合だ。こんなのは初歩も初歩のレベルだが、たまにある。

    そんなこんなで古い時代に作ったものは開発者もわからない状態になっていることもある。そのため、そのシステムを理解するとか解析することから始めることもあるのだ。

    納品されたが全然動かないので見てくれという仕事を請け負ったことがある。こっちもできているもんだから、なんだ?これ?何やってんだ?と思う箇所があって、おっかけていくと意味がわからない。つまりは出来ていなかったのだった。出来ていないものを出来ていないと分析するのは結構難しいと思った。

    話はそれたが、仕様を決めて作るのだから、その仕様が完全であること。完全でなければ拡張性を考えておくことが重要である。同じような部品は作らないことも大事だ。結構車輪の再発明的なこともある。なので、それなりに統括しないと効率のよい仕事にはならない。

    前にメンテナンスにかなりお金がかかるというシステムのニュースがあってtwitterでこんなにメンテナンスがかかるのはおかしいとコメントを書いたら、あなたはシステムがわかっていないからそう言える。メンテナンスはお金がかかるもんです。と言われた。

    その考えは古臭い。メンテナンスも自動化は可能なのだ。けれど、きっと相手は理解しないのだろうから、反論はさけたけれど。

    要するに、ちょっとわかった風な人らがこの日本にはいっぱいいるのだ。デジタルは開発時に人間はいっても、ほぼほぼ自動化できる。そういうものだ。ただ、お金がかかると思わせないと儲からないというのはある。

    そういえば、この手の開発は試験書というものをドキュメントで納品することが多い。で、その試験書は仕様があって、ものすごく書いていたらうざいのだ。だから必要な出来事を箇条書きに書いて入力しとけば、それを読み込んで試験書にするプログラムを書いたことがある。面倒なことはコンピュータにやらせた方がいい。

    もともとは試験書とか言うドキュメントの形式がどうかしているのだが。試験はもちろん必要だが、アウトプットの形式がいると思っている時点で頭が固まっているとは思う。できるだけその手の作業は簡単でポイントだけおさえたようなものにしたほうがいい。

    日本以外の国はデジタル化が進んでいるという、ならばシステムをそのまま買ってきてローカライズした方が早いのではないかという気もしないでもない。新興国のシステムが優れているならば、お金で開発チームごと買ってしまうというのも手だ。

    10月 31, 2023
  • 新しいものを作る

    新しいものを作るには新しいものの作り方をするのが一番いいと思っている。同じやり方をしていても、たかがしれている。

    音楽の場合は特にそうで、楽譜を書いてそれを演奏するというのが、クラッシックから続く普通の音楽の作り方だ。その中で、いろいろと模索したのが音楽の歴史だ。

    現代音楽にいたってはプリペイドピアノのような音程がはっきりしないものとか、テープをつないだりといった手法ができて新しい音楽が出来た。

    テクノで考えるとやはりリズムマシンの登場、シーケンサーの登場は大きいと言えるだろう。あとはフレーズサンプリングなんかも大きい。サンプラーそのものの存在がとても重要だ。

    皆がやっていないやり方で音楽を作る。このこと自体が新しいとは言えるけれど、これを探すのは難しい。

    楽器を演奏するのはまずやめる。これは重要だ。まず、ここから始めないといけない。

    そして、新しくなるためには自分で考えないといけない。他人に言わない方がいい。そういうことになる。

    10月 31, 2023
  • 本

    kindleが出ていこう、電子ブックの利用が多く増えた。基本はkindleだが、大きな問題が出ている。読むに値しない本が続出していることだ。

    kindleで個人も多く出版できるようになった。インターネット時代、これが実に当たり前となった。かつてはブログの延長が本になった時代もあったが、Amazonでは自由に自分が作った本が売れる。

    そもそも、テキスト情報だから、こういったブログ、Xでのつぶやき、それに電子ブックもかわりはないのだ。つまり、このブログのようなどうでもいい情報が溢れている。さらに、儲けたいからサムネイルやタイトルが凝ってくる。

    では、実際の本と何が違うかだ。それは関わっている人の数だ。もちろん、ものづくりが個人の延長であることは否定しない。しかし、それをチェックする編集者がいて、本は成り立っているのだ。まずは編集者の感想がありきなのだ。編集者というフィルターは執筆者にもフィードバックされる。フィードバックされなくても、編集者のフィルターで直されることもある。そもそも、出版されるか否かでフィルターがかかっているのだ。

    このフィルターが落書きを落書き以上のものにしているわけである。

    youtubeも含めて、素人が簡単に情報発信できるようになった。これも体裁だけはどんどんうまくなっている。しかし、フィルタリングという機能がいまいちないように思う。むしろ、切り抜き動画があらん方向へと向いていて、よいフィルターとしては機能していない。

    抽象化していくプロセスは本来いらないものだ。ふくよかな情報、質感を伴っていて、見る側が記憶で抽象化していく。むしろ、ものには抽象化できないものがどれだけ入っているかがポイントになる。要するに情報を落としたものにはなんの価値もない。

    ただ、雑多な情報のどれを出すかの選定は必要な作業なのだ。フィルタリングというのはそういう作業だ。

    今は根こそぎ情報を簡潔にすることが求められているのかもしれんが、おそらく本当にほしいものは、少ない情報の質感だけはやたらある情報だ。

    話がそれたが、今、ちゃんとした本の方がよい情報があるといえる。

    10月 31, 2023
  • リアリティ

    リアリティを高めるというが、これはそもそもそのモノが架空、嘘であることが前提としてある。架空の出来事をあたかも現実におこったような状態にするためにリアリティをあげるわけだ。だから、そのモノは非日常でなくてはならない。

    これと比べて、非日常関係なく、2Dを3Dにするとか、VRにすると、ステレオから多チャンネルとか、こういうのは凄そうに見えて、あまり意味がない。なぜなら、それらをいくらがんばっても、現実以上にはならない。

    小川のせせらぎを多チャンネルで録音して再現できるわけだけど、それを再現するより、そこにいけばいいだけなのだ。再現技術をあげても、ただの現実に近づくだけだ。

    非日常空間がリアルに再現できることに意味がある。

    逆にいうと、脳は情報でそれを構成しているのだから、情報自体がリアルでなくてもいいのだ。

    そのことは小説、絵画、音楽、映画等がすでに証明している。これらはすべて現実と比べて情報が少ないわけだけど、その少ない情報からリアリティを十分に獲得できている。

    もし、情報が少ないからリアリティを感じないというなら小説が描き出す世界とか、漫画が描き出す世界とは何なのかという話である。

    つまり、装置としてのリアリティはさほど意味がないのだ。ラジカセでも十分に音楽は楽しめるのである。

    逆にいうと、すでに3D空間にいる我々は現実が日常感覚であるがゆえに3D自体になにも面白みを感じないといってもいい。だから、リアルな人物彫刻とかマネキンとかに興味はあまりもてないでしょ。建築物でも普通のビルや家に感動はしない。変わった彫刻や変わったビルや建物には感動する。教会の大聖堂などは非日常空間だから感動するのだ。

    海外旅行もそうだ。海外旅行とは日常ではないものに触れるというただそれだけのことだ。現地に住めばそれが日常になっていき、人はその中で変動をもとめるはずだ。

    追求すべきはリアリティであって、リアルではない。

    10月 30, 2023
  • 傲慢

    未来は誰にもわからない。これが真実であり、それに対応しようとするのを私は傲慢だと思う。いかなるルールを設定しても、想定外のことや、ルールを無視した事故は起こる。

    事故が起こったときに、その起きた事故に対して、こんなことにならんようにうんたらかんたらとか言うのは愚の骨頂だ。起きたしまったものは仕方がない。もうこんな事故はおこしたらあかんで、で十分だ。

    想定外の事故ならなおさらだ。想定内であっても、たまに起きてもおかしくないのだ。

    交通事故なんてまさにそう。交通事故がなくなることはまずない。自動運転が増えてもおこる。車や運転に問題がなくても、道路に問題があるかもしれない。空からなにかが降ってくるかもしれない。

    あるいは子供の事故もそうだ。子供は好奇心がいろいろあるので、どんなことも遊びにしてしまう。だから大人から見たら危険なこともやってしまう。危険とわからないからだ。むしろ失敗したり、事故にあったほうが、成長する。それが子供だ。危ない目にあっているから、ここは危険だという判断がつくようになるのだ。

    それが自然であり、繰り返しになるが、未来は誰にもわからない。これがわかるとか想定できるということが傲慢だ。

    なにかに怒っている人はだいたい思うようになっていないから怒る。しかし、思うようにならないことが普通だ。そう思った方がいい。

    10月 29, 2023
  • 幸福の話を金とからめるとおかしなことになる。

    旧統一教会問題で、被害者の救済というのは金の話ばかりで少しウンザリする。

    二世信者という言葉もしっくりこないが、信者が親の子が自分の代になって金がすべてもってかれたことで揉めているわけだ。子は信者ではないから。

    でも、ことの発端は信者が寄付をしてしまう実態に問題があったわけで、つまりは詐欺まがいの商法であったとなるわけである。宗教なので、詐欺まがいのお布施なのかもしれんが。

    しかし、問題はどこから詐欺かが宗教の問題で、これには誰も定義できないから踏み込めない。

    商品でも3ヶ月の保証はあれど、1年で壊れた場合、これは詐欺に近いのか?人にもよるかもしれん。購入するときに10年は使うつもりだったのかもしれん。いや、普通はそんなことも気にしていないのだろう。壊れる時期が早かったら、あれっと思うのだろう。私ならそのメーカーの商品は次にはちょっと考える。

    話は違うけれど、食中毒も食うまではわからんのだから、いや、食ってもわからんし。どれくらいの食品の管理があったかによって不道徳かそうでないかということになる。

    宗教だとやっかいだ。なぜなら効能がないからだ。しかし、私財を手放して幸福感を得ようとするのはあるのだろう。そう、そこが一般的に疑問ではある。なんで私財を手放すの?って。

    私が思うに、明らかに信者はそのときに幸福を得ているのだ。死後、幸福になるという約束でも、その約束を今とりつけたことに確実に喜びを感じているのだと思う。人間って計画性なんてほとんどない。多くの人間は刹那的に生きている。刹那的に生きていなければ詐欺にはひっかからない。

    つまり、間違いなく刹那的に幸福感を得ているから、私財を寄付するという行動に出ているのだ。この幸福の論理を壊さないことにはこの手の問題は解決しないのではないかと思う。

    このまま行くと地獄におちますよ。不幸になりますよ。末代までとんでもないことが起こります。それを防止するにはこのツボを買った方がいいですよ。となるのだろうけど、その不安を取り除く効能があるわけである。

    ツボには何の価値もないけれど、不安が存在しているのでそれをそのツボは取り除いた。では、いったいどこから不安が生じるのか?

    おおまかに言ってしまえば、不安はどこにでもある。潜んでいるだけで、それを表にだせば、何でも不安になる。

    たとえば、外出したとして、財布を家に忘れた。それだけでも人は不安になる。出先で財布を落としたら、さらに不安になる。スマホを飲食店で忘れても不安になる。

    で、この手の不安は実害がほぼほぼない不安である。時間がたてば解決もするし、財布をおとすと金額は減るけれど、人生が変わるぐらいの実害ではない。

    冷静になれば、その不安はどうでもいいものだ。しかし、冷静でいられるかどうかがポイントだ。不安というのはあおられれば不安になるのだ。

    もっと結論をいうと、死んだらしまいなのが人なので、生きている間はどういうことがあってもいい。失敗しても成功しても、死はそれを台無しにする。つまり、不安があっても、死んだらおしまいなので、不安をもって生きること自体が意味がないと言える。それこそ、刹那的に生きるのはある意味正解なのだ。しかし、これを言ってしまうと、財があろうがなかろうが、戦おうが戦わなくてもどっちでも実はいいということになる。

    お金というのはそれなりに楽に暮らすためのものではある。お金がないことで不幸を感じるのはあまりよくない。(その面倒を幸福と感じるなら、それもいいのだが)というわけで、自分が不幸と感じるまでの私財を手放すのはいいことではない。

    宗教が人を救うことはほぼないと思っているので、宗教にはまる人は本来は哲学をやるべきだが、ただ闇雲に念仏となえたら幸せになれると考えるなら、ただ闇雲に単純労働をしても幸せになれると考えるのと同じだとした方がいいだろう。どちらも、何も考えないのだから。

    10月 29, 2023
  • 成功とは先駆者にしかない

    おそらくこれが事実なのだ。誰もやっていないことや、誰かがやり始めたことを先に完成させるかどうかなのだ。

    ただ、誰もやっていないことというのは、言い換えると誰も評価しないことなのだ。それが成功をもらすかどうかは運でしかない。運でしかないが、間違いなく誰もやっていないことをやることが成功にはつながる。

    後追いで成功できない理由はライバルが多すぎること、それによって、そのものが量産されて溢れかえってしまい、そこの利益が薄利になることからだ。

    昭和(戦後といってもいいが)は海外で流行っているものを日本でもやればたいてい成功できた。日本の成功者はほぼこれだろう。今はこれがあまり通用しない、なぜなら、情報が日本に入ってくるのが速くなったからだ。しかし、今でも現地にいって手に入る情報からその流れを掴み取るのは有効かもしれない。

    しかし、日本人が中国を見て、猿真似だと批判するが、日本もかつては猿真似で今もその流れは染み付いている。なので、そうそう新しいものが日本で生まれることもない。

    それでも、新しいこにチャンレンジするしか成功の道はたぶんない。

    後追いで成功する方法を考えているが、ぱっと思いつくのは薄利多売。いろんなことに手を出して、総合商社や百貨店のような形にしないといけないのかもしれない。

    10月 28, 2023
  • 構造分析の限界

    なにかを抽象的に分析するとその構造があらわれる。だいたいヒット作というもののパターンがあったりする。

    ところが、よくできたものというのは、いかに構造が素晴らしかってもディテールとそのバランスが大事だったりする。このバランスやディテールはやろうと思って作れるわけでもないところが重要だ。

    たとえば、ある映画を撮ろうとして、素晴らしい話があって、それが本になっていて、コンテが上がっていても、役者がよくなくて、カメラマンがだめで、照明がだめで、音楽もだめなら話にならんと思う。

    この場合、監督、演出がすばらしければいいという話ではある。しかし、一般的に演技をつけるのが演出だと思われているがそうでもない。人によっては役者にすべてを任す人もいるし、事細かく指示をする人もいる。

    結果的に自分が求めるディテールをどうやって出すかがポイントになり、そのバランスをとるのが一番難しいのだと思うが、これについては経験論や偶然がものをいうだけだ。

    料理を作ろうとして、残り物で料理を作るか、素材を吟味して料理を作るか、いずれにしてもセンスがいるわけだ。このセンスがなにか、どうやってまとめるかっていうのは意外に方法論は確率していないし、無数に方法があるということである。

    ディテールが大事ではあるが、構造も大事だ。両方大事だ。しかし、構造なんてすでにある良作の構造をパクるだけで、個性はディテールにあるのだから、構造分析は初心者レベルは必要だが、それ以降はいらないと私は思う。

    ただ、教科書とか論文というのは構造で語らないと語れないところがあって、構造が表にでてしまうのだろう。

    10月 27, 2023
  • 賢い人

    賢い人には2種類ある。ちょっとだけ賢い人とものすごく賢い人だ。

    どう違うかというとちょっとだけ賢い人は人よりも道理をこころえて、こうした方がいいとかアドバイスできる人だ。人よりもちょっとだけ賢いので、とても合理的だ。

    ものすごく賢い人になると、そういうことを教えてもたぶん変わらないことを知っている人だ。中国の古典でそういう人がよく出てくる。動じないし、相手が失敗するまで待ったり、天候がよくなるまで待てる人などが出てくる。

    ちょっとした賢い人は自分のとおりやれば、必ずうまくいくと考える。合理的にはそうだ。だから、よくトラブル。周りの人はなぜ、俺のいうとおりやらないんだとなる。

    ものすごく賢い人は、一瞬は大衆も感化されるが、すぐもとに戻ることを理解している。

    だいたい、そんな感じだが、この間には無数の段階がある。

    私はちょっとだけ賢い人だったので、よくトラブった。最近になってもっと賢い人はそうしないと気づいたのだ。もっと賢い人は大衆の動きこそが全体の動きであることをたぶんよく知っているのだ。

    ちょっとだけ賢い人たちが次から次へとあらわれて、多くなってそれが大衆化していき、少しだけ方向が変わるというのが正解なのだろう。

    「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というが、愚者ではない。ちょっとだけ賢い人だ。愚者は経験を得るだけで学んでいるかどうかは怪しい。経験をつんで見えてくる世界があるにはある。ちょっとだけ賢い人はそこからいろいろ学ぶ。経験を体系化するのがちょっとだけ賢い人のやっていることだ。

    逆に歴史を見ると、経験から得られるものはそこにはない。すでに歴史的に繰り返されたり、体系化されたものがそこに残る。賢者はそれをくみとっているだけだ。しかし、結局はそれが正解だったりする。

    同じことをやはり繰り返す。歴史は繰り返す。

    10月 26, 2023
  • 買い替えで使うか、修理して使うか?

    昔は当然修理して使うものが多かった。完全に物理的に壊れない限り、ほとんど修理していた。ビデオデッキなんか何回も修理してもらっていた。

    当時はビデオデッキが凄い高かったからだ。10万以上していた時代があったのだ。

    いつの間にか時代は買い替えの方が多くなったと思う。それはなぜか、コンピュータがのるようになったからだ。コンピューターの処理速度が速くなって、メモリも増えてきて、コンピューターが進化すればいろいろできるようになって製品も機能アップという形で進んできた。

    パソコンだけに限らず、いろんなものにコンピュータがのるようになった。最たるものはパソコンそのもののスマホだろう。あれはもはや電話ではない。

    しかし、やっていることはどうだ?さほど変わっているのだろうか?

    SNSによってコミュニケーションが増えた?いや、バーや茶店で普通に話している方がもっといいでしょう。いらんコミュニケーションが増えている。

    音楽でも、スペックアップはまったく必要としていない。十分な領域だ。

    メーカーはもっと売りたいからOSをアップデートして古いソフトを使えなくしていっている。

    2027年までにEUはバッテリが交換できないスマホを販売できなくなる。これもスマホ買い替えを進めるのが間違いだという考えだ。これによってスマホ業界が縮小するのではないかという声もあるが、そういう風に考える方がおかしい。末永く使えるものをつくればいいのだ。

    新しいOSも本当は全然旧機種にも載る。既にスマホの部品自体がいろいろありすぎて、ドライバーを対応するのが面倒なだけだ。ただ、新しいOSは機能をてんこもりしぎて、旧機種では重くなるのだろうが。

    ただ、そうした機能の拡張も本当に必要かということだ。どこかで使えるものを手にいれて、末長く使っていくのが正しいのではないのだろうか。使い捨て経済はもういらない。

    10月 25, 2023
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