リアリティ


リアリティを高めるというが、これはそもそもそのモノが架空、嘘であることが前提としてある。架空の出来事をあたかも現実におこったような状態にするためにリアリティをあげるわけだ。だから、そのモノは非日常でなくてはならない。

これと比べて、非日常関係なく、2Dを3Dにするとか、VRにすると、ステレオから多チャンネルとか、こういうのは凄そうに見えて、あまり意味がない。なぜなら、それらをいくらがんばっても、現実以上にはならない。

小川のせせらぎを多チャンネルで録音して再現できるわけだけど、それを再現するより、そこにいけばいいだけなのだ。再現技術をあげても、ただの現実に近づくだけだ。

非日常空間がリアルに再現できることに意味がある。

逆にいうと、脳は情報でそれを構成しているのだから、情報自体がリアルでなくてもいいのだ。

そのことは小説、絵画、音楽、映画等がすでに証明している。これらはすべて現実と比べて情報が少ないわけだけど、その少ない情報からリアリティを十分に獲得できている。

もし、情報が少ないからリアリティを感じないというなら小説が描き出す世界とか、漫画が描き出す世界とは何なのかという話である。

つまり、装置としてのリアリティはさほど意味がないのだ。ラジカセでも十分に音楽は楽しめるのである。

逆にいうと、すでに3D空間にいる我々は現実が日常感覚であるがゆえに3D自体になにも面白みを感じないといってもいい。だから、リアルな人物彫刻とかマネキンとかに興味はあまりもてないでしょ。建築物でも普通のビルや家に感動はしない。変わった彫刻や変わったビルや建物には感動する。教会の大聖堂などは非日常空間だから感動するのだ。

海外旅行もそうだ。海外旅行とは日常ではないものに触れるというただそれだけのことだ。現地に住めばそれが日常になっていき、人はその中で変動をもとめるはずだ。

追求すべきはリアリティであって、リアルではない。