旧統一教会問題で、被害者の救済というのは金の話ばかりで少しウンザリする。
二世信者という言葉もしっくりこないが、信者が親の子が自分の代になって金がすべてもってかれたことで揉めているわけだ。子は信者ではないから。
でも、ことの発端は信者が寄付をしてしまう実態に問題があったわけで、つまりは詐欺まがいの商法であったとなるわけである。宗教なので、詐欺まがいのお布施なのかもしれんが。
しかし、問題はどこから詐欺かが宗教の問題で、これには誰も定義できないから踏み込めない。
商品でも3ヶ月の保証はあれど、1年で壊れた場合、これは詐欺に近いのか?人にもよるかもしれん。購入するときに10年は使うつもりだったのかもしれん。いや、普通はそんなことも気にしていないのだろう。壊れる時期が早かったら、あれっと思うのだろう。私ならそのメーカーの商品は次にはちょっと考える。
話は違うけれど、食中毒も食うまではわからんのだから、いや、食ってもわからんし。どれくらいの食品の管理があったかによって不道徳かそうでないかということになる。
宗教だとやっかいだ。なぜなら効能がないからだ。しかし、私財を手放して幸福感を得ようとするのはあるのだろう。そう、そこが一般的に疑問ではある。なんで私財を手放すの?って。
私が思うに、明らかに信者はそのときに幸福を得ているのだ。死後、幸福になるという約束でも、その約束を今とりつけたことに確実に喜びを感じているのだと思う。人間って計画性なんてほとんどない。多くの人間は刹那的に生きている。刹那的に生きていなければ詐欺にはひっかからない。
つまり、間違いなく刹那的に幸福感を得ているから、私財を寄付するという行動に出ているのだ。この幸福の論理を壊さないことにはこの手の問題は解決しないのではないかと思う。
このまま行くと地獄におちますよ。不幸になりますよ。末代までとんでもないことが起こります。それを防止するにはこのツボを買った方がいいですよ。となるのだろうけど、その不安を取り除く効能があるわけである。
ツボには何の価値もないけれど、不安が存在しているのでそれをそのツボは取り除いた。では、いったいどこから不安が生じるのか?
おおまかに言ってしまえば、不安はどこにでもある。潜んでいるだけで、それを表にだせば、何でも不安になる。
たとえば、外出したとして、財布を家に忘れた。それだけでも人は不安になる。出先で財布を落としたら、さらに不安になる。スマホを飲食店で忘れても不安になる。
で、この手の不安は実害がほぼほぼない不安である。時間がたてば解決もするし、財布をおとすと金額は減るけれど、人生が変わるぐらいの実害ではない。
冷静になれば、その不安はどうでもいいものだ。しかし、冷静でいられるかどうかがポイントだ。不安というのはあおられれば不安になるのだ。
もっと結論をいうと、死んだらしまいなのが人なので、生きている間はどういうことがあってもいい。失敗しても成功しても、死はそれを台無しにする。つまり、不安があっても、死んだらおしまいなので、不安をもって生きること自体が意味がないと言える。それこそ、刹那的に生きるのはある意味正解なのだ。しかし、これを言ってしまうと、財があろうがなかろうが、戦おうが戦わなくてもどっちでも実はいいということになる。
お金というのはそれなりに楽に暮らすためのものではある。お金がないことで不幸を感じるのはあまりよくない。(その面倒を幸福と感じるなら、それもいいのだが)というわけで、自分が不幸と感じるまでの私財を手放すのはいいことではない。
宗教が人を救うことはほぼないと思っているので、宗教にはまる人は本来は哲学をやるべきだが、ただ闇雲に念仏となえたら幸せになれると考えるなら、ただ闇雲に単純労働をしても幸せになれると考えるのと同じだとした方がいいだろう。どちらも、何も考えないのだから。