感覚と理性


体にとって、一次情報は感覚のくせに脳に到達して記憶化される段階になると理性になる。感覚というのは瞬間的なもので、記憶にはそんなに感覚は残っていないと考えた方がいい。

もちろん、嬉しいことや悲しいこと、つらいことは覚えているだろう。しかし、当時の感覚はごっそり抜け落ちている。悲しい感情は「悲しい」ことになっているのだ。つまり、そこでは抽象化されているといえる。

私は脳科学者でも医者でもないけれど、きっとそういうことが行われているんだろうなと思う。

これが何を意味するかというと、音楽を作っているものとしては大きな意味がある。要するに、音そのものからダイレクトにくるものは瞬間の感動をあたえるが、記憶では抽象的な記憶しかないのだ。

もっと簡単にいうと、音楽をおもいだすためには歌やメロディーが効果的ということだ。逆に音の質感等は情報量が多すぎるので記憶されていないことが多いということになる。

しかし、感動そのものはダイレクトに音なのだ。それは音楽でなくても同じ。大砲の音や、サイレンの音など巨大な音はそれだけでも感覚にひびく。工事現場の音がうるさいのはそのせいだ。w

しかし、後日、工事現場の音をリアルには思い出せない。工事現場がうるさいという記憶でしかない。情報がごっそり抜け落ちている。

これがいたるところにあるはずだ。美術館で見た絵や写真を思い出しても、その内容しか思い出せないはずだ。映画で感動しても、語ることは出来ず、ストーリーを語っても伝えられないとか。

これが何を意味するかというと、内容は具体的な方が思い出せるということでもある。音楽だと簡単なメロディー、そもそもメロディーがあるものが一般的な音楽になっている。写真や絵は具象が写っていないと訳がわからない。映画でもストーリーがあって成立している映画が普通だ。どこそこで食った麻婆豆腐が美味しかったからよそでも麻婆豆腐を食べるとかよくあることである。

しかし、体験は感覚的なものなのだ。つまり、音楽では音が重要であって、写真や絵は内容以外が重要であって、映画もストーリー以外が重要だ。麻婆豆腐ならその店の味が重要なのである。

宿命的にそれらは覚えてもらいにくいけれど、その覚えてもらえないことをやることこそに意味があるといってもいい。