賢い人


賢い人には2種類ある。ちょっとだけ賢い人とものすごく賢い人だ。

どう違うかというとちょっとだけ賢い人は人よりも道理をこころえて、こうした方がいいとかアドバイスできる人だ。人よりもちょっとだけ賢いので、とても合理的だ。

ものすごく賢い人になると、そういうことを教えてもたぶん変わらないことを知っている人だ。中国の古典でそういう人がよく出てくる。動じないし、相手が失敗するまで待ったり、天候がよくなるまで待てる人などが出てくる。

ちょっとした賢い人は自分のとおりやれば、必ずうまくいくと考える。合理的にはそうだ。だから、よくトラブル。周りの人はなぜ、俺のいうとおりやらないんだとなる。

ものすごく賢い人は、一瞬は大衆も感化されるが、すぐもとに戻ることを理解している。

だいたい、そんな感じだが、この間には無数の段階がある。

私はちょっとだけ賢い人だったので、よくトラブった。最近になってもっと賢い人はそうしないと気づいたのだ。もっと賢い人は大衆の動きこそが全体の動きであることをたぶんよく知っているのだ。

ちょっとだけ賢い人たちが次から次へとあらわれて、多くなってそれが大衆化していき、少しだけ方向が変わるというのが正解なのだろう。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というが、愚者ではない。ちょっとだけ賢い人だ。愚者は経験を得るだけで学んでいるかどうかは怪しい。経験をつんで見えてくる世界があるにはある。ちょっとだけ賢い人はそこからいろいろ学ぶ。経験を体系化するのがちょっとだけ賢い人のやっていることだ。

逆に歴史を見ると、経験から得られるものはそこにはない。すでに歴史的に繰り返されたり、体系化されたものがそこに残る。賢者はそれをくみとっているだけだ。しかし、結局はそれが正解だったりする。

同じことをやはり繰り返す。歴史は繰り返す。