養老孟司の動画で自然とは人の意識が作らなかったものという定義をしていた。なるほど。
自然に触れ合うとかいって、ハイキングコースを歩いたりするのは、ほぼほぼ自然ではないと前から思っていた。なぜかというと、道は人間が整備しているものである。草木をカットしてあれはできているのだ。人が歩いていると維持できるが歩かない場所は草がぼうぼうで、わりと誰かが整備していたりする。
普通に都市生活をしていて自然を感じるのは空と雲と光と雨と風ぐらいなもんだ。道も人工物だし、そこらじゅうに誰かが作った人工物があふれている。
ただ、面白いのはその人工物は材料は自然のものだったりする。というか、地球上にあるものを加工して生み出している。すなわち、人の意思が絡んでできたものになっているわけだ。
さて、そんな話がしたいのではなくて、この自然との関係のバランスがわりと重要なのだろうと考えていた。
たとえば、昔はテレビはアナログ放送だったし、テープレコーダだったし、紙に手書きのノートやら本などが手に入るものだった。これらはアナログであり、アナログにはいい加減な部分が存在する。テレビ放送もデジタルから比べればすぐわかるが、ひどい状態だ。テープもヒスノイズがついてまわる。紙はにじむものだ。かすれたりもする。
だが、デジタルになるとこのいい加減な部分がなくなる。いい加減な部分がなくなると、それが素晴らしいとなり、均質化なものを求めていく。
しかし、基本は人口物といっても自然なものであるので、実は個体差というのがある、初期不良もあれば、調子のいいものもあるのだ。だが、均質化で、それらは排除される方向になる。
人間も自然なので、実はいい加減にできている。朝起きたくないとか、まだ寝ていたいと言うのは普通なのだ。規則正しい生活をできている方がどうかしていると言ってもいい。
なので、均質化はそんなにあわないのであると思っていて、いろんなところで、問題が発生しているのではないかなと思っている。
つまり、それからするといい加減なものにバランスよく触れるというのが結構大事なのではないかと思っていて、そういうことを音楽を作るのにもいれていくべきだなと思っている。
しかし、便利さも享受したいとも思う。なのでコンピューターを使わないというのはちょっと無理だ。wコンピュータを使いつつもいい加減さをどういれていくかがポイントとなる。